子どもの可能性をそのままに

先日イグノーベル賞において「猫は固体であると同時に液体でもあり得るのか」という研究が物理学賞を受賞しました。


「猫は液体である」というメタ研究を受けてのもののようですが、その理由を研究者のファルダン氏は論文の中で、「固体とは、一定の体積と形を保つもの。液体とは、体積は一定であるものの形は容器に合わせて変化するもの。気体とは、そこにある体積を満すべく広がるもの」という一般的な定義に基づき、猫が液体か否かの解明に取り組んだと述べています。実はその定義づけが先日のちょっとした思考と重なったのでそれについて書きます。理科の授業を思い出しながら読んでください。


『子どもの可能性について』


ある資料を作っている際に、子どもの可能性について言及しようと試みていました。
子どもの可能性を、、、引き出す、伸ばす、広げる、、、などと考えてみましたがしっくりきません。もともとそこにあるものに対して何かプラスに出来るものではないような気がして。


そこでぼんやりと可能性っていうものを概念的に考えていたときに前出のイグノーベル賞の発表を目にしました。子どもの可能性っていうのは範囲を定めない限り広がり続ける気体みたいなものなのではないかと。子どもの可能性はこの世に生を受けた時には無限であり、その可能性を制限してしまうのは大人を主犯とする周りの環境だろうと思ったのです。つまり空間のある限り広がっている可能性という気体に対して、大人が範囲を決めてしまう、すなわち輪郭を作り容器としてしまう。するとその容器内でしかその可能性という気体は広がりを持てません。しかも熱エネルギーの観点で考えれば気体は液体よりも熱エネルギーを持っていますが、もし大人による何らかの外力により熱エネルギーを失ったら分子は自由に飛び回ることができなくなり、凝縮という状態変化が起きて液体となってしまいます。液体となったら容器という制限はあるにせよ、その空間いっぱいに満ちていたものが重力によって下に沈みます(容器がなければ形を保持できません)。つまり空間を満たさなくなります。それでもまだ容器の形に合わせる柔軟さをその可能性という液体は保っています。でも更に熱エネルギーを失うとどうなるでしょう。今度は凝固という現象が起きて固体になります。そうなると可能性という物質は容器の形に係わらず形を変えることを許されず、全く柔軟性を失ってしまうことになります。そういうことを大人はやってしまっていませんか?


ものすごく概念的ですが、なんとなく心当たりある人もいるのではないでしょうか。

それでは、先ほどの続きで、子どもの可能性を、、、狭めない、制限しない、決めつけない、守る、保護する、、、といった言葉が適当でしょうか。前述の述語よりはイメージに近い。でもそこに何らかの手は加えられている感は否めません。

というわけで今のところ、


「子どもの可能性をそのままに」


というところに落ち着いています。ですが、言葉にしてしまうということ自体がそもそも制限を生み、良くないのかもしれません。とにかく、思考内容としては形無く無限に広がっている子どもの可能性というものになるべく触れず、働きかけず、意の向くままにしておくというスタンスを大切にするべきだと思います。

とりとめもない文章になってしまいましたが、哲学者を目指すつもりは全くないことを言及しておきます。




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