子どもに求めるもの

先日とあるショッピングモールでたまたまあったハロウィンランタンづくりというイベントに参加してきました。そこで感じたことをちょっと書きます。


簡易ランタンキットを組み立てて装飾をするという単純なものでしたが、子どもの思いを差し置いて親が率先して綺麗に仕上げていく、、、それはそれはきれいに。

で、それって意味ある?何のため?学校で成績がつくわけでもなく、順位づけもなければ何かの賞がもらえるわけでもないのに。100歩譲って家に可愛らしいインテリアとして飾るため、、、だとしても子どもの思い描いたものは形にならないのでしょうか。

それでいて子どもに対しては「ちゃんと考える大人になってほしい」「自分の思いを実現できる大人になってほしい」というから本末転倒甚だしい。親になったら母子手帳と一緒にルソーのエミールを必読書として課したら良いのに。

ところで、先日のNHKで『変貌遂げる甲子園への“道”』と題して6歳の小学生に対して動作解析を元に指導するという特集がありました。リンクはこちら。これについては浅学菲才の私が語るより弘田雄士さんというコンディショニングコーチがとても分かりやすい見識を述べていますのでそちらを参考にしてください。『あなたは大丈夫?絶対間違えたくない子供の教育投資に真に必要なもの




キネステーゼ(強引訳:運動感覚または動感)を交信する言語手段を持ち合わせていない子どもに運動指導なんてできるわけがないのです(子どもがキネステーゼを持ち合わせていないわけではない)。ましてや番組を見る限りサイバネティクス的に可視化できる外見からのアプローチに見えます。それが何を生み出すのかは冒頭の工作を綺麗に仕上げる親の行為と同様、私の理解の範疇を越えます。その不毛な行為に50分1万8000円、、、。そのお金と時間をどう使うかはそれを持っている人の自由であり需要と供給の市場原理が働いてるわけですから私がどうこう言う権利もありませんが、親を選べないその子どもの不憫でならないと感じるのと同時に、その子の将来がどうなっていくのかある種の興味があります。

しかしながらここでの問題は親だけにあらずです。そのサービスを提供している指導者は、本当にそれが子どものためになっていると思っているのだろうかという疑問を抱かずにはいられませんでした。以前『あそびとスポーツ』と題した投稿でも似たような問題を指摘しましたが、子どもの可能性をこの段階で制限する罪過は大きいと感じます。子どもはプログラミングできるロボットではないのです(そういう指導者は正確無比な動きを実現できるロボットを作るエンジニアになればいいのに(笑))。こういうことを見聞きすると、早いところ“教えない運動あそびクラブ”を実現せねばと使命感にかられていきます。参考『子どもには教育ではなく放育を

これをお読みの指導者や保護者の皆様へ

どうか子どもは子どもでいさせてあげてください。


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