勝負の経験を時代の遊びに垣間見る

「今の子どもは人前で負けるという経験が少ない」

今の職場での研修でそんな話がありました。
オンラインゲームが普及し、一人でゲームしていて顔の見えない相手に負けたところで誰も自分の負けを知らないというわけです。そういう子どもたち、もしくはそういう環境で育った青年世代はスポーツでも遊びでも現実世界でいざそれが起こると、どう振る舞っていいか分からない。だから負けを認めなかったり、癇癪を起したり、言い訳ばかりならべたりします。なるほどそれは確かにそうだなと思いました。

ちなみに一昔前は同じゲームでもオンライン上ではなく、少なくとも物理的にそこに対戦相手がいる状況での勝ち負けですから、自分が負けたということは少なくとも勝った相手は知っているわけで、そこにいる友達もどっちが勝ってどっちが負けたかは分かりました。しかし、所詮ゲームですから負けたって失うものは何もないんですね。マリオだって命がいくつもあって穴に落ちたってまた復活できました。ファミスタだって負けたらもう一回っていうのができました。お金をかけていないギャンブルも同じでそこにはプレッシャーもなく、勝負の狭間のせめぎ合いみたいなものが薄れていたように思います。現実世界とのギャップはやはり存在していましたね。

その更に前のゲームはどうでしょう。駄菓子屋のピンボールやインベーダーは失敗したら失うものがありました。お金です。ベーゴマやメンコだって負けたらそれを相手に獲られていました。失うものがあると勝負も本気になりますね。勝ちたい意欲、負けたくないってプレッシャーは常にあったのだろうと思います。

そう考えると今の子どもは現実世界での勝ち負けが減っている分、本気で勝負するという経験が不足しています。また社会的にも順位づけをしなくなってきていることもあり、勝負そのものを避ける傾向にすらあると思います。そんな子どもたちにスポーツで勝負論、試合論を説いたって理解するはずもありません。もっと言えば指導者だって試合論を理解しているかどうかも怪しいです。スポーツとは遊びであると同時にゲームであり、勝負事なのです。勝ち負けのプレッシャー、これの経験値の差は大きい。日頃からいかにそういうプレッシャー下でパフォーム出来るのかというのが重要だと思います。

ひょうんなことから子どもの遊びの変化を時系列で考えてみましたが、やはり負けん気はヴァーチャルではなく現実世界でしか養えないのではないかと思います。前にスラムで育ったアスリートの話も少し書いたことがありますが、ヴァーチャルを持たない子どもは遊びだって本気です。今日負けた相手に明日は勝つ。そうやって逃げずに立ち向かう。勝ったって得るものはないのに。自己の満足だけ。本当の意味での内発的動機付け。でもやっぱりそれが一番強いんです。

遊ぶなら本気で遊ぶべし。


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