子どもには教育ではなく放育を

子どもを育てるには、「教えない」のが良いのではないだろうか。

ルソーの消極教育に洗脳されたわけではないですが、近ごろの習い事を見ているとそんな風に感じます。勉強でもスポーツでも文化的なものでも、きっちりと整理されたプログラムがあり、教える方もマニュアル通りに教えているように見えます。

よくあるのが算数で答えは合っていても途中式がないまたは教えた通りでないから不正解というパターン。算数なんて数の概念だから求めているものが求まればいいわけです。それをどう導き出すかは個々のプロセスがあって良いのではないでしょうか。英語だって言語自体はコミュニケーションを取る手段に過ぎないのだから、伝われば役目は果たせているはずなのに正しく整理された英語を小さな子どもに教育しています。

同じ例では他のことでも言えます。投げ方や打ち方を細かく教える野球クラブ、蹴り方やフォーメーションを刷り込ませるサッカークラブ、腕の振り方や脚の挙げ方を統一するかけっこ教室。そう、あたかもそこに正解があるかのように。まるでロボットのプログラミングと同じです。子どもはそういう指導を受けると、それしかやっちゃいけないんだと思ってしまいます。そして「なぜそうしたの?」という問いには、「コーチがそう言ったから」という答えになってしまいます。そこには考えたことも感じたことも存在しません。

子どもはロボットではないのですから、プログラミングは必要ないわけです。プログラミングをされた子どもはそれしかできなくなります。以前、『アスリートが育つ環境』と題して書いた記事にはスラム街から出てきたアスリートのお話をしましたが、“教育”が整備されればされるほど、特出した人材は生まれてこないのではないかと思ってしまいます。

帰納的学習法。
コーチの役割はバリエーションを提供して偏差的学習とする。
こう言ってしまうと何やら話が難しくなりますね。
なので、、、


子どもには、教えない。


教えない、運動クラブ。


それでいいんです。
答えはそこにあるような気がします。

ヒップエクステンションを動力源とする
トリプルエクステンションの後方への応用(なんちゃって)


※ちなみにタイトルにある“放育”は記事を書いている時に思いついた造語です。(すでに使われてる方がいるようですね)

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