ファンクショナルトレーニングの究極系は競技そのもの

ファンクショナルトレーニングという言葉が世に出回って久しい。
最初にその言葉を聞いたのはいつだろうか。10年以上は経っているかもしれない。




で、そのファンクショナルトレーニングって何でしょう?
調べてみても定義は体幹とかゼロポジションとかといった他の用語と同じく曖昧なようですね。

私自身は恩師(と勝手に思っている)から教えてもらった
『ファンクショナルでなければトレーニングとは言わない』
という言葉を大切にしており、それを聞いて約10年になろうという現在、至極真っ当な意見であったとどんどん腑に落ちていく感じが止まらないのです。私なりの言葉で言い換えるなら、行なっているトレーニング内容の合理性、つまりどのような運用がなされ、パフォーマンスの向上につながるかということが理論的、論理的になければならないということです。

ところが最近流布しているファンクショナルトレーニングと言われるものを見ていると、どうも競技の動きに似せたものや、現存するトレーニングではない目新しいものを目指しているように見えることが多々あります。原理原則を外さないよう指導を受けた私にとっては違和感を感じずにはいられません。むしろ同業者としては残念な気持ちになることもあります。しかしトレーニングの真理というのは私も分からないですから、結局は個の意見、個のコンセプトというところに落ち着くのでしょう。

でも例えば思い切って前述したようなファンクショナルトレーニングを発展させていった場合、それって最終的には競技の動きになるんじゃないの?と思ってしまいました。(それが今この記事を書いている発端です。) なるほど、それではその競技の練習をガシガシやれば良いわけですね。それ以上のファンクショナルトレーニングはないでしょう。負荷が必要っていう意見にはウエイトベストを着たり重い道具を使ったりして。発想としては面白いですね。それで結果が出ればファンクショナルトレーニングの真理ここにあり!と言えるでしょう。

しかし私個人の意見では本来フィジカルトレーニングというのは競技の練習とは別物です(というよりは競技トレーニングの一部がフィジカルトレーニング)。究極的にはフィジカルトレーニングをガシガシやって、競技トレーニングもガシガシやった結果、パフォーマンスが上がるというのが理想です。そこにはフィジカルトレーニングの競技への運用が必要なわけですが、そこが難しいので前述のようなファンシーなフィジカルトレーニングというのが行なわれていったのでしょう。しかし競技に運用されていないのであればフィジカルトレーニングが適切に行われていないということなので、総合的にトレーニングというものがどういうものなのかを捉える必要があります。そしてその運用度合はその選手のそれまでの運動経験値によって左右されます。

ちなみに私が処方するトレーニングのバリエーションは多くなく、ある意味飽きることが多いかもしれません。例えばウエイトトレーニングに関しては上下合わせても10種目前後しかありません。ウエイトトレーニングに限らず、もともとエネルギー系のトレーニングは原理原則が多いわけではないですから、バリエーションなど必要ないのかもしれません。その代わり情報系は多様性が問われることがありますから、そういうわけにはいかないのですが、先に述べたように合理的に説明できることが大切でしょう。

結論としては話が飛躍しますが、原理原則をしっかりと抑えているかということを選手も指導者も、またそれらの人材を運用する側の者も分かっているべきだと思います。

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