子どもにフィジカルトレーニングは要らない

スポーツ界においてフィジカル、フィジカルって叫ばれて久しい。

今回は、でもそれって本当に必要? って話。
特に子どもに対して。




大人のステージで成熟したアスリートにとってフィジカルトレーニングが必要なのは分かります。計測競技の100分の1秒のため、採点競技の1点のため、球技の5cmのコントロールのため、コンタクトスポーツで相手を打ち負かすため、金箔を一枚一枚重ねて貼っていくようにパフォーマンスに上塗りを重ねていく作業。これは分かるし、私にもそれを行う自信のようなものは少しはあります。

でも未成熟の子どもにも同じように当てはめようとしてないでしょうか。そもそも子どもは単純に言語が未熟だし、ましてや感覚を言語化して伝えられるわけがないのです。腕の振り方、脚の挙げ方、重心の扱い方、説明して理解するわけがないのです。(当然、実行できない)

誰が言い出したか、体幹が大切だの、インナーマッスルが大切だの、可動域が大切だの、呼吸が大切だの、股関節が大切だの、、、それが子どもにとって大切でないとは言いませんが、スポーツ科学の発展により“後付け”で分かったことを、それも大人にとってはたぶん(大人にとってだって“たぶん”の域を抜けない)大切なんじゃないかなっていうことを、それは当然子どもにだって大切だろうって言ってしまう。そう言っている人に悪気はないのだろうけど、そんなのは大人のまやかしでしかない。

日本人が日本人の子どもに言葉を教えるのに、『あ』の発音の仕方を教えますか? “熱い”と感じた時には『熱い!』って言うんだよと教えますか?少なくとも私は教わった記憶はないし、教えることができるとも思いません。そんなのは見聞きしたり、概念的に勝手に覚えていくものだと思います。“apple”の最初の音を『エの口(くち)でアっていう音を出す』とか『アとエの中間の音を出す』とか言うのは言語理解が進んだ大人になってからの話。つまりそれは“感覚的に学習する時期を逸した”からそうするしかないのです。

身体運動も同じ。適当に遊ばせていればいいはず。ブランコだって滑り台だって誰もその遊び方は教育しないのでは?スポーツだって結局は遊びだからブランコとか滑り台と同じで教育はいらないのです。速く走るのに腕の振り方を教えなくたって“速く走ろうと思うこと”を誘発したり、単純に速く走っている大人を見せてやればいい。ボールの投げ方だって『左足を上げて前に出す時に右手を引いて・・・』なんて教えなくたって、ある距離、ある強度、あるコントロールで投げようと思えば勝手にそうなります。もしくは大人がそうやって投げてりゃ勝手に真似する。ゴールを決めようと思えばフェイントだって覚えるだろうし、高く飛ぼうと思ったら勝手に助走をとるでしょう。トリプルエクステンションなんて言葉はもっての他です。型にはめられたらそれ以上のものは出てきません。プログラミングされたロボットと同じことです。子どもはロボットではないのです。

“こういう風に身体を使うべき” なんていうべき論を一旦捨てましょう。

適当に遊ばせて期を待つ。“期”が来たら教えてやればいいんです。トレーニングしてやればいいんです。子どもを指導する大人に理解してもらいたいと切に願います。


『人は子どもというものを知らない。子どもは子どもでなければならない。』
                     ―――ジャン=ジャック・ルソー




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