運動の習得の適齢期

運動の学習には適齢期というのがあって、それを逃すと到達できる上限というのは決まってしまいます。

幼い子供の頃、砂場で山を作っていた時、土台の平らな部分を作ってから上に砂を積み上げていったことを記憶していますが、その土台の部分の直径で上に積みあがる砂の高さは決まってしまいます。

私は運動もこれと同じだと思っていて、ある程度大人に近い年齢になってから運動能力を高めようとしたところで、辿りつける頂きの高さは限られてしまいます。先の砂山の例で言えば、途中から「あ、もう少し高い山を作りたいな」と思っても、一番下の土台の直径を大きくすることができないのが運動の習得です。何とか水で固めるなどして工夫をすることはできますが(別言すればトレーニングを一生懸命やることはできますが)、それでも積み上げることのできる砂の高さには限界があります。やはり土台の直径が大きい方が勝るのです。

その土台の直径の大きさを決めるのが運動体験です。多種多様な運動体験を幼いうち(できれば未就学時期)に行うことで、土台の直径はどんどん広くすることができます。ある時間が経つとそれ以降は「はい、土台作りはもう終わりなのであとは今作った土台の上に砂を積み上げるだけにしてください」となるわけです。おそらくはそれが小学校中学年期ぐらいでしょうか。科学的根拠はなく、あくまで私の経験則からですが。

そこから先はいかに上手く水を使って固めながら砂を積み上げることができるかという勝負ですね。それがいわゆるトレーニングです。トレーニングの質が同じならば土台が大きい方の勝ちですよね。

話は変わりますが、先日英語の指導をする機会がありました。聞けば英語を使って仕事をすることを目指すと言います。しかし当人は受験をした経験がなく、大人になってから文法や単語をスタートさせるという状況です。これはとてももったいないことです。受験英語がある程度貯金として残っていればそれを基に高いレベルの英語を習得する、または応用実践に入ることができます。
また数学においても因数分解をやりますって時に九九や割り算が出来なかったら、皆が因数分解をやっている時に九九や割り算からやらなければいけないことになってしまいますね。

運動においても同じことが言えます。ある動作の習得を狙ったときに、その基盤となる運動体験がないからできないといったことが往々にして起こります。前述の英語や数学ならまだ時間軸がずれるだけで済むかもしれませんが、運動はそうはいきません。ある適齢期に習得されなかった能力は、あとから遡って習得することは難しいです。不可能とは言いませんが、子どもが1か月で出来ちゃうことを大人は1年かかるとか、そういう状況になり得ます。なので、授業中に寝ていないでその時々に必要なことを習得していきましょうという話です。

あまり良しとされていない日本の英語教育ですが、私はそれほど否定派ではありませんし、前述の例で言えば英語だって数学だって指導要領はわりときちんと作られているのではないでしょうか。問題は体育ですね。体育だって指導要領はあるはずですが、実際に現場で指導されている内容が近年の体育では変化しているように感じます。加えて子どもが「遊ぶ」という「宿題」をやらない。だから狙った時系列で運動が習得されていかないのです。

話が長くなりましたが、子どもが子どもでいる時間は限られているので、しっかりとあそばせたいものです。自戒の念を込めて。

250年以上前にルソーによって謳われた言葉、
『子どもは小さな大人ではない』とは良く言ったものです。




追伸、そうは言っても誰にとっても今日が一番若いはずなので、過去を悔やんでも仕方ないですから、勉強でも運動でも今の最善の習得を目指すべきですね。こちらも自戒の念をこめて。

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