(広義での)トレーナーにはその競技経験が求められるか?

ある競技の選手を指導する際、求められるものの一つに競技経験があります。


それに関して、私の個人的な意見を述べるとすれば、「あるに越したことはないが、なくても良い」という至って平凡なものになってしまいますが、大事なのは指導する側の運動財(※)です。

(※運動体験により蓄積された運動感覚、コツ、カンのようなもの。身体知という言葉も類義ではあると思いますが、ここでは私がイメージしやすかった運動財という言葉を使用します。)

動きを見ていて、「あ、今こういう感じ方をしたんじゃないかな」「こういう力の入れ具合でやったらうまくいくんじゃないかな」というような推察はこれまでにそういう感覚を体験した人間にしかできません。指導者がそういった感覚を持ち合わせていなければ選手と感覚の共有を図れることもないし、共通言語を使ってのやりとりもできないのではないでしょうか。コーラやビールを飲んでいるCMを見て美味そうだなと思うのも自己の体験があるからこその感覚です。

もちろんその指導者が指導対象者と同じ競技をあるレベルまで突き詰めていれば指導にも深みが出ると思いますし、選手からの共感や信頼も得やすいのは事実だと思います。でもそうでなくても豊富な運動財があれば、「今ボールが軽く感じたでしょ?」「お尻を使って上手く地面を捉えられたでしょ?」といったように、指導対象者が実践している運動を見てあたかも自身がその身体に入り込んで運動しているかのように感じることができるはずです。

フィジカルトレーニングの指導者で言えばウエイトトレーニングを見て「今の動きだとお尻じゃなくて腿がキツかったんじゃない?」といった摺り合わせになるでしょうし、技術コーチで言えば「あの場面、力んで腕が遅れただろ」といった技術感覚の共有になると思います。
表題に「広義での」と書いたのはフィジカルトレーナーだけでなく、技術コーチも含めてすべての指導者にとって共通に言えることだからです。メンタルトレーナーだって心の感覚の共有は必要ですし、それは栄養トレーナーにとっても同じです。

もちろん指導者自身が到達していない、または体験していないステージの対象者を指導することも多いです(私も含めて実際そのケースの方が多い)。その際にも運動財があれば摺り合わせをすることができるはずです。それでも「やったことないお前にわかるわけない」とどこかで思うのは事実なので、あとはその選手との信頼関係でしょう。

最近SNS上で「トレーニングをしないフィジカルトレーナー」のことが話題になっているのを見かけましたが、鍛えることそのものよりも、運動財を蓄積していくことが大事なのでやはり指導者も運動が必要だと考えます。

というわけでアスリートの養成には運動財の蓄積がとても重要ですが、指導者にとってもそれは同じですよというのが今回の記事の主旨でした。




昔書いた「アハ体験を共有する」という記事と似たような内容でした。(書いたのがもう3年近く前ということに驚きです)

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