あそびとスポーツ

あそびということにハマっている以上、ある程度あそびについて勉強しないといけないなと思い、先日ヨハン・ホイジンガ氏の「ホモ・ルーデンス」とロジェ・カイヨワ氏の「遊びと人間」を読んでみました。結論を一言で言うととても難解でした。が、とてもよい勉強になりました。

両氏は遊びの定義を以下それぞれのように述べています。
ホイジンガ氏の定義
遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている。

カイヨワ氏の定義
①自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。②隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。③未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。④非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。⑤規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。⑥虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

よくよく読めば共通しているようです。それは自発的な活動であり、一定の規則を持ち、遊び自体が目的でありつまりは何も生み出さないということ。私の理解では簡単に言えばそういうことのようです。

これって、スポーツ活動と似ているなぁと思いました。
自発的、つまりやりたいからやる。楽しいから、歓びがあるから。やはりスポーツはそうでなくてはならないと思います。(職業としてのスポーツはこれとはちょっと違うでしょうか)

あそびもスポーツもそれ以上でもそれ以下でもないんですね。ただ、これまでに発信しているように私はここのところスポーツの上達にはあそびが不可欠であると主張しています。しかしそれは訴えかけるものではないのかもしれません。スポーツのためにあそぶのではなく、あそびたいからあそぶ、明日はより楽しくあそぶ、明後日も、明々後日も。スポーツもきっとその延長線上にあるでしょうから、つまりは分けて考えるものではないということですね。一つ勉強になりました。


ところで、先日近所の運動教室(走り方指導)に参加しました。
そこでの指導に危機感を覚えたので、何かを評する立場にないことは承知の上でちょっと発信したいと思います。

そこは最新のスポーツ科学理論に基づいて子どもへの運動指導をしているそうです。その日は未就学児の子どもとその親として参加しました。内容ははと言えば、保護者(親)に対しての説明が多く、科学的にどうとか、脚の上げ方や腕の振り方がどうとか、、、。

違う!

大事なのは子どもが走りたいかと思うかどうか。
きれいに走るかどうかはまた別の話。
きれいに走ることができたって走りたいと思わなかったら意味がない。
そして走るのに腕がどうとか脚がどうとか気にしていたら余計遅くなる。
そもそも言語を理解していないのだから説明は無駄。(未就学児ですよ)
まずは走りたいという意欲を持つこと。
もっと言えば(それがビジネスであるならば尚更)子どもが楽しいと思うかどうか。
親が「凄い」「また行かせたい」って思ったところで子どもがそう思わなければそれは強制であって冒頭のあそびの定義に反する。

このような感じで「これはやっちゃダメだな」ということがたくさん学べるいい機会でした。そういう意味では収穫盛りだくさんです。

で、私ならどうするか。子どもだったら単純に楽しく走るしかけを作ればいいと思います。
ボールをおいかけるとか、しっぽとりやらせるとか、鬼ごっこでも、だるまさんが転んだでもいいでしょう。走るのは手段であって、目的ではないのです。手段を教えるのではなくて、何をしてほしいかを伝えればいいと思います。

前々回書いたように「好きこそものの上手なれ」です。

科学だ理論だの言っていると子どものあそび、運動、スポーツが楽しくなくなってしまいます。それがどうも心配で、これはやっぱり何かきちんとしたアクションが必要なのではないだろうかと自問自答を繰り返している今日この頃です。


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