競技動機としては没頭が最強かもしれない

少し前に3週連続してちょっとミクロな視点で「型」について書きました。しかし実際のところ、(自分の職業を卑下する言い方になりますが)そういった要素が運動選手としての成功に結びつく貢献度はそう高くないと思っています。(何を成功と呼ぶかの定義はここでは読者の皆様にお任せします)

つまり、大胆な言い方をすればフィジカルトレーニングや運動学をいくら突き詰めていっても“たかが知れている”と思います。運動能力を高めるには間違いなくそういったことは必要になるのですが、マクロな視点で見ればかなり断片的であり局所的な要素に過ぎません。

では、何が必要なのかと考えた時に、根底にあるものは何でしょう。この点については以前「桶の理論をアスリート形成に当てはめる」で書きました。要は全ての要素においてまんべんなく隙をなくしていく以外にないということです。それを成し遂げるために必要なことを考えた時に、今のところ私が考えるのは2つで、一つは高みを目指したいという強烈な“欲”か、もう一つは頑張らざるを得ない“切迫状態”のどちらかだと考えます。

欲に関してはもうそのままですから述べる必要はないでしょう。お金、名誉、自己満足、目的は何であれ、ただ単に欲求するということです。

もう一つの切迫状態は日本ではあまり馴染みがないかもしれません。その競技が経済的に裕福になる唯一の手段である場合などが一つの例です。それで成功しなければ家族が食べていけないだとか、目の前の試合に勝たなければ向こう3ヶ月自分の活動資金がないだとか、そういう状況は途上国のアスリートにおいては珍しくありません。ハングリー精神という言葉はあまり好きではないですし、その言葉一つで片付けたくはないですが、分かりやすく言えばそういうことです。

こうして考えてみると好きなことに対する欲を持てる前者、そもそも欲を持てるという現実は経済的に余裕のある国、または個人の特権と言えるかもしれません。欲を以て勝負する選手は切羽詰まった選手の競技動機を上回る欲を持っていなければなりません。ハングリーの例えで言えば、3日に1度ありつけるかどうかの飯を目の前にした時、その人の動機を上回る食への欲求を持っていない限りは勝負は明白です。私個人の意見では海外で日本人が通用しないのはこの点において差があると感じることがよくあります。

ちなみに、上記二つの他に挙げられるものがあるとすればそれは「没頭」です。あることに没頭したとき、寝食を忘れて時間が経過していたなんてことは皆さんも経験があるのではないでしょうか。有名な諺にも「好きこそものの上手なれ」というのがあります。ここで、ホリエモンこと堀江貴文氏が“没頭”ということについてよく発言しており、「好きだから没頭するのではなく、没頭するから好きになる」と述べています。好きという感情の前には没頭という過程(忘我)を経るそうです。そして好きこそものの上手なれに通ずるわけですね。

『無我夢中』

その最たる例が遊びだと思います。



冒頭に述べた通り、フィジカルトレーニングの領域が貢献できる範囲は、高みを目指す意識がない限りはたかが知れています。技術理論、栄養、作戦、データ、科学技術、どれをとったって「欲」「切迫状態」「没頭」の貢献度には敵わないと思います。なぜならそれらを持っている人はある目的を達成するためにはあらゆる手を尽くすからです。

欲を育てるのってすごく難しいと思いますが、夢中になれるものを見つけた時にそれを邪魔せずに没頭できる環境を整えることが必要です。そして夢中になれるものを見つけられるように多くの刺激を与える環境を用意することもまた重要です。

最後に、この記事を書いている最中に一つ文献を見つけたので紹介して終わりにします。

私がグダグダ書くよりも分かりやすくまとまっているのでぜひご一読ください。


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