動きの型を持つということ

トレーニングにおいてある型を練習する

実際の(対人系or球技系)競技ではそんな動きはないかもしれませんし、その動きを実行する機会に恵まれることなんてほとんどありません。実は意味のないことのようにすら思えます。

それでも私はトレーニングにおいて型を作っていきます。
ではなぜトレーニングでは型を大事にするのでしょう。

それは折り紙の折り目を付けていく作業に似ていると思います。
そこで折るのが一番容易になるように。
また川やグラウンドで水道を作るのと似ているかもしれません。
そこに水が流れやすくなるように。




その行為を意識せずともそれが行われるという回路を作る。つまり下意識の層へとその動きを潜り込ませていく作業になります。電気回路でもそうですが、抵抗が最も少ない道を電気は通ります。生理学的には説明がちょっと異なりますが、神経筋協調も電気回路なので似たように考えられると思います。

逆に言えばそれ以外の動きをしたときに違和感を感じるということです。その違和感を感じるようになればしめたものです。ただしここで言う型とは単に形を意味するのではなく、以前の記事「ウエイトトレーニングをしっかりと考える」でも書したように筋を動員するタイミング、動作を遂行するタイミング、関節角度、筋の緊張度などの内部感覚までを含めた型になります。むしろ私個人の取り組みとしてはフォーム云々よりもその感覚の訓練という意味合いが強いです。

そうして型ができたら、というより型を作りながら実際の競技をどんどん練習します。トレーニングしたような動きが含まれていようと含まれていなかろうと関係ありません。動作遂行の層が高くなればなるほど(試合に近い状況であればあるほど)動きそのものに意識はいかなくなります。その際に実際の動きでその型が利用されているかどうかを見ていきます。型をしっかりと浸み込ませられていれば、そこでは意識せずとも求める動きが違和感なく引き出せるようになってきます。それは折り目をたくさんつけた折り紙は、角と角を合わせるなどといった意識をすることなく簡単に鶴が折れるようになるような現象と似ています。そしてその折り目が丁寧であればあるほど綺麗に折ることを意識せずに完成させた鶴もきっと綺麗に折られているはずです。
(逆に折り目を誤って作ると、修正が困難になります)


つまり、トレーニング、特にここではフィジカルトレーニングにおいてはそういった型をどんどん浸み込ませた上で、実際に与える運動課題としてはそんなことは取っ払って刺激的な運動課題をどんどん与えていくことになります。

しかしながら一方では、そんなことをせずに運動課題だけを与えてそれをクリアする手段を自分自身で考えさせていけばよいのではとも思います。これは相反するような考え方ですが、実は私の中ではそこまで相反していません。次回それは書きたいと思います。そしてこの型を作るというトレーニング法は、その動作が問題なく遂行されている場合にはアプローチは異なり、トレーニングの目的も異なります。ある動作が出来ているのであれば、そこに後から型を付けて一度意識下に持ち出すことはもったいないですし、時間の無駄です。出来ている動作に関しては邪魔をすることなく、その動作の延長線上にあるより難しい運動課題を与えていけば良いのです(あとは単純にその動作の精度や出力を上げる)。型にはまらないパフォーマンスというのも当然あると思いますし、どちらかと言えばそちらの方が本物であるとも思います。加えて言えば私はフォームありきでの運動指導は嫌いですし、金太郎飴のように誰もが同じ動きをするような指導は望んでいません。矛盾しているように聞こえますが、これも私の運動指導の型ですので、どうかご容赦ください。

最後に型づくりに戻りますが、あらゆる状況に対処する、あらゆるスランプに対処する、そういった型のないことのために(ある程度の)型を作るということが重要であると私は考えます。僅差の勝敗はファンダメンタルの差であるとはある指導者の言葉。

無い袖は振れません。

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