あそびの可能性

あそびと運動に関して考えれば考えるほどスポーツ科学から遠ざかっている気がする今日この頃です。語弊を恐れずに言えば科学的にアプローチできるパフォーマンスなんて知れてるとすら思えてきます。運動の基礎としてあそびを通して様々な体験をしていなければその上に積み重なる科学的トレーニングは大きな意味を持たないと思うのです。逆に言えば子どものときの運動体験が後のパフォーマンスの伸びシロに大きく影響をするのだろうと思います。

ここでいうパフォーマンスは単にフィジカルだとかスキルだとかといった意味にとどまらず、社会的や心理的な側面も含めてのパフォーマンスです。例えば社会的にはチームワークであったり他への貢献、礼儀作法などが含まれ、心理的というのはモチベーションだったり負けず嫌いといった性格であったり、情動面における特徴の形成が含まれます。そういったことが単にスポーツからではなくあそびから得られるというのが最近の私が感じるところです。

実際にトレーニング学を紐解けばそういった社会的行動様式や情動面が運動学習プロセスとその学習結果に影響を与えると記されています。(「初歩の動作学-トレーニング学」より)

冒頭のスポーツ科学の話に戻ると、体験から得られる効果は科学的に説明がつかないことはあると思いますし、実際には科学的なアプローチが必要ないケースが多いと思います。

で、大事なのは やってみる→成功したor失敗した という経験です。

水たまりがある
跳び越える
成功したor失敗した





この場合成功すればその子にとってはその水たまりを跳び越えるのに十分なパフォーマンスを持っていたことになり、失敗すれば単純にジャンプ力が足りなかったまたは跳び方が悪かった(力やコオーディネーションといったパフォーマンス前提の欠如)+己の実力を図り誤ったということが判明します。

その経験が大事で、「次は跳び越えてやろう」とか「次はやめておこう」といった子ども自身の判断力が養われます。

そこで親が「何やってるんだ!」「靴を汚すな」となってしまっては元も子もありません(得るものはありません)。当然のことながらより良い跳び方を教えたところで子どもが理解するわけもありません。子どもには理論は後回しにして、「跳び越える」というタスクを与えるだけでよいのです。やっていく中で「これは出来る」「これは出来ない」という判断ができるようになります。

これはスポーツの指導でも同じだと思います。投げ方を教えるのではなく、「遠くに投げる」「早い球を投げる」といったタスクを与え、それをベースにアプローチするべきです。How toは子どもが勝手に考えます。これを教えてしまうとかなり制限のかかったスキルの出来上がりということになりかねません。そしてそういった思考能力や判断の基準となる引き出しは幼少期から継続したあそびの中にヒントがごろごろ転がっているはずなのです。我々大人はただ環境やしかけを用意すれば良いのです。(このことは先日書きました「育つ環境が大事」)

しかし、日本の現状では競技が基本的に18歳までに一つの区切りを迎えます。勉強を理由にそれよりも早い段階で見切りをつけるケースもあるでしょう。つまり子どもへの競技指導にはそうやってトライ&エラーを繰り返している時間はないんですね。

そこで役立つのが科学というわけです。
これまでの成功例、失敗例が統計的にあらわされているのが科学です。起こった事象の検証がそこでされており、指導対象の子どもの先輩たちがどうだったかを科学は教えてくれます。それをヒントに指導者が環境を提供していけば良いのだと思います。

そうなるとやっぱりスポーツ科学に帰ってくるわけで、、、。解決しない輪廻です。

でもモノは考え様です。体験から学ぶのは大人も一緒です。科学的にやってみたら良かったorダメだった。では次はどうする?この繰り返しです。

おとなもこどももみんなよくあそびよく学びましょう。





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