1回目の大切さ、難しさ

今回はタイトルがそのまま結論です。

その日1回目の運動というのは難しいです。少なくとも「最も最近行なった運動」が1日以上前なわけですから。2セット目であれば1セット目の成功体験や失敗体験を踏まえてでき、また1セット目でも2rep目(回目)であれば1rep目(回目)の良し悪しで修正もできるでしょう。でも1回目ではそれができません。

それが初めてやる(運動)であれば、「どのような負荷がかかり、自分や対象物の重心はどこで、筋肉のトーヌス(緊張)がどれぐらいなら可動域がどれぐらいで、どのタイミングで力発揮が行われるのか」ということを予め予測して運動に入ることが求められます。

それが初めてではない場合には前回の運動様式の記憶を辿り、上記と同じく「どのような負荷がかかり、自分や対象物の重心はどこで、筋肉のトーヌス(緊張)がどれぐらいなら可動域がどれぐらいで、どのタイミングで力発揮が行われるのか」といったことを思い出した上で運動に入ることが求められます。


つまりは動作の準備です。そういった感覚の準備を行うことを動作の先取りと言ったりもします。この先取りという考え方は私も恩師から教わりました。

しかし、クルト・マイネル氏や金子明友氏は、「運動」は身体によって体現される前に完了しているといった主旨のことを述べていたと記憶しています。つまり我々の目に見える、または写真やビデオに撮られる画は、物理的に現出した「知覚」であり、「運動」の結果としての形であるということです。ここまで読んでもらうと上記の「予測して運動に入る」とか「思い出した上で運動に入る」という表現が正しくなく、予想したり思い出したりすること自体が運動であるという理解になると思います。

これは大変難しい概念ですが、私もようやくその上っ面が分かるようになってきました。こういった類の話を単に「運動感覚」とか「キネステーゼ」という言葉を用いて私の薄っぺらい理解度で説明するにはあまりにおこがましいので割愛しますが、この類の話を理解できないと指導者として運動を指導するということは難しいと思います。

したがって、指導している対象人物が運動を理解しているかどうか、その動きをモノにしているかどうかを図るには1回目の動作をみるとよく分かります。うまくいっていれば巧みに運動できている、そうでなければ巧みに運動できていないということになろうかと思います。(うまくいっているかどうかを判断する目が指導者にあることが大前提ですが)

タイトルに関する話はここで終わりです。


話は発展して、実際の競技においては様々な刺激が転がっています。雨でぬかるんだ地面、当たったこともない体積やスピードの選手のタックル、風、でこぼこのコース、こういったいろいろな刺激に対処することが求められます。刺激に対処するということは動作を先取りするということです。しかも可能な限りそれは無意識に行われるよう自動化されることが望ましいです。それを可能にするには豊富な運動体験によって蓄えられた運動財が必要です。

ここ最近の私の投稿を読んでいただいた方であればもう起承転結の“結”の部分はお分かりだと思いますが、運動財を蓄えるのにもってこいなのが、やっぱり、、、


あそび


なのです。

よくあそび、よく学びましょう。








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