あそぶことは難しい

最近ブームの「あそび」について続きます。

先日参加した「原っぱ大学」


子どもにあそびを提供する環境が必要だと過去に記事で書きましたが、それは一筋縄ではいかないようです。そこには社会的背景が関わってくるからです。

まずは親の問題。
子どもにあそびを与えるには、まず親の心にあそびがないと難しいと思います。
(注釈は不要かもしれませんが、ここでのあそびとはゆとりのこと。)
休みがない、朝から晩まで働いている、単身赴任、今は何をするにもお金がかかる時代の中であそばせるお金がない、汚れた服の選択が億劫、、、などなど、こどもにあそびを与えない「言い訳」は挙げれば枚挙に遑がないぐらい多くあります。


でもこれは単に親だけの問題ではないですね。
社会の問題です。
でも社会の問題は自分一人ではなかなか変えられないので、一番変えることができる自分を変えるしかないのです。

もう一つ親の心のあそびに関しては放置することが難しいです。
忙しさに負けて「見守る」「任せる」といったあそびが大人になくなってきています。
時間的な制限、他の子どもとの比較などがこどもの自由を奪ってしまいます。
あそびですらあそび方を指示する(または制限する)ことも増えてきたと感じます。
スポーツを含む習い事でも同じことが見られます。
「こう走りなさい」「こう投げなさい」あたかもそこに正解があるかのように指示が飛び交います。
これに関しては語れば長くなってしまいますので別の機会に。

そしてその習い事。
最近のこどもたちのやってることを見聞きしてみると、テニス、水泳、野球、習字、英語、公文、塾、、、といった習い事の多いことに驚かされます。多様な経験と言えば聞こえがいいですが、いったいいつあそんでいるのでしょうか。前述した大人と相違ないように疲弊しているこどもたちが多く見受けられます。習い事はあくまである一つの手法を習うことになり、そこに想像力だとか自分の創意工夫は生まれづらいです。やっぱりここでもあそびに勝るものはない、と、こうなるわけです。

それと場所の問題。
今はあそぶ場所がどんどん制限されています。
ボールあそびをやってはいけない、自転車を乗ってはいけない、もっと言えば大昔にはなかったマンションが増えた結果、家であそぶと騒音問題に発展するので家ではあそべない。



こういうことを考えるとどんどん話が大きくなってしまいますが、少子高齢化の中でこどもがあそぶ環境には投資されなくなっている社会的な現状といったことまでが影響しています。
ちょっと趣旨とはずれるのですが、「余裕資金があったら定期預金に預けるより、幼児の人格教育をした方があるかに効果が大きい」と言った声明まで出ているようです。(出典:「江戸の寺子屋に学べ。子供の躾を蔑ろにする国に明るい未来はない」より)

途中にも書いた通り社会的な問題はなかなか解決しようにもそれこそ一筋縄ではいかないので、やはりここは共同体の最小単位である家族があそびのスタンスを持つところからがスタートと言えるのではないでしょうか。

そんなことを考えている時にこんな記事がありました。
子どもの人格形成を左右する家族の価値と雰囲気
それぞれの家族が思い描く幸せをもう一度話す時間があってもよいかもしれません。


かく言う私自身がまだまだ不十分な親ですので自戒の意味も込めて。
あそぶことは確かに難しいです。

でも、

よくあそび、よく学びましょう。



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