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外遊びによって育まれるもの

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子どもの場づくりに携わっている中で、時間の過ごし方についてはこれまでここの場でも発信してきたように自由で然るべきだし、それが外で元気に遊んでいようと、室内で読書や折り紙に勤しんでいようとどちらでも良いと思っていました。 しかし最近ふと気づいたことがあって、やはり外で身体活動を伴った遊びというのがプラス要素が多いだろうというように思いましたので、毎度のことながら備忘録代わりに書いてみます まず屋外という環境についてですが、屋内に比べて入る刺激の種類や量が多いです。例えば気温や風などは一定ではないし、天気も変わるし、鳥や乗り物の音など、多くの刺激が入ってきます。そういった環境に身をおくことでその刺激に晒されるだけでなく、天気や地面のデコボコなど大小含めて対応することも多いので対応力が醸成されると考えられます。 それから屋外の身体活動ということで例えばスポーツをすると人と関わります。人との関わりの中で当然コミュニケーションは生まれますし、喜怒哀楽なども発生します。一人遊びや一人でずっと読書をしている子を観察したこともありますが、他人との関わりや感情の変化はあまり見られませんでした。他者と関わる外遊びによって発生する感情の揺れや起伏に自分自身が対処するチカラというのも養われるものと思います。 さらにはスポーツでなくとも身体活動の成り立ちとして、こう動いてみようという着想に始まり、実際に自分の身体を動かす行動、動いた結果うまくいった又はいかなかったという結果があり、そしてその結果からまた再現や改善へのトライというプロセスが生まれます。スポーツによっては秒単位でこのトライ&エラー、またはPDCAが発生します(スポーツでなくても木登りや鬼ごっこなどでも)。これだけ頻繁にこのプロセスが発生するものは実は多くなく、ここにスポーツ(外遊び)の意義ありとも考えられます。 上に書いた刺激への対処や他社とのコミュニケーション、自分自身の身体活動のPDCAなどを経ると、そこには必ず意思決定が発生します。子どもの過ごし方を観察していると、ずっと一人で一つのことをしている場合に比べて、複数人で運動を伴う活動をしている場合とでは意思決定の量が圧倒的に異なることに気づきました。私としてはこの意思決定の多さが個人の人生の豊かさに大きく影響すると考えています。 もちろん、日によっては一人でいたい日

“っぽい”は“っぽい”ままでいい

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子どもがいるところにボールとか打具を置いておくと、子どもたちは勝手に遊び始めます サッカーボールならサッカーっぽい遊びが始まり、不思議と楕円形のボールならラグビーっぽい遊びが始まります。 きっと今の子どもたちはこれまでの人生で得てきた情報から、サッカーボールは蹴るもの、ラグビーボールは持って運ぶものという認識にはなっていると思います。ちなみに私がドミニカ共和国で見た光景として、棒と投げられるサイズの物(例えば石)があれば、自然発生的に野球っぽいものを始める子どもたちの遊びがありました。先日は段ボール工作での廃材を丸くして室内でサッカーっぽいものが始まりました 実はこの“っぽい”が大事で、ちゃんとしたルールが分からないので子どもたちが勝手に作っていきます。私としてはそれを微笑ましく見ていて、スポーツの根幹がこうした子どもたち自作のスポーツっぽい感じに垣間見えます ところが、最近のジュニアスポーツの現場を見てみると、やれオフサイドが、やれノックオンがと細かなルールから教え込んでいて、子どもは楽しむことよりもルールを守ることを優先させられています。さらに悪いことにルールだけでなく、「こうやって打て」「あそこにパスしろ」と技術や戦術を教え込んでいきます。これではクリエイティブなプレーヤーが生まれないばかりか、指示待ちプレーヤーのできあがりです。最悪なケースではそのスポーツがつまらなくなって辞めてしまいます “っぽい”ものをきちんと精度高いスポーツにして、さらには大会にして、、、それで教え込んで勝って何になるのか、こういったことを考えていない指導者、広くは大人がとても多い昨今です。それで勝ってその子は嬉しいのか、嬉しいのは指導者なのではないのか。残すべきは勝利という戦績ではなく、そこに至るまでの試行錯誤ができる人間なはずなのに。(ちなみにこの人育てという点においては、私はスポーツの教育的利用には大賛成という立場ではなく、あくまでどうせ好きなスポーツをやるならそうやって試行と錯誤を繰り返したほうがいいのではないかと思っています) 大人が与えるのは知識や技術ではなく、「どうしたらいいのかな」「次はこうしてみようかな」と考える“余白”だと思います。余白を与えるから人は考え、振り返り、改善し、成長するのだと私は思います。そのために“っぽい”活動をそのままにして見守り、余白の活用を見た

最短距離で答えを急ぐなかれ

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タイトルはスポーツに限ったことではないが、ことスポーツにおいても特に感じることが多い昨今です。 ①     低年齢での勝利至上主義 早期専門特化による低年齢での勝利至上主義は相変わらず加速している気がします。 10,000 時間の法則というものが謳われて、極力早期に 10,000 時間を消化しようとしているかのように見えます。加えて、人間である選手をあたかもロボットであるかのようにプログラミングしている様を見ているととても不憫に思えてきます。低年齢のうちは教え込みで結果が出るとは思いますが、長期的に考えれば逆効果を生むことになるかと思います。むしろ自分で自分自身を成長させることができなくなり、伸び悩むことになります。 ②     データ至上主義 今のスポーツ界では何もかもがデータ、データと数値化を進めていますが、必ずしもそれがスポーツの発展に寄与しているとは思えません。自分や相手の動作やパフォーマンスが客観的に示されて参考になる部分もあるとは思いますが、それによって失われるものもあります。例えば感覚や予測、コツやカンが挙げられます。今のスポーツ界ではあたかも正解があって、それに自分のパフォーマンスを寄せていく、またはコンピュータが示す通りに行動するようになってしまっていて、人類の主体的な感覚によって勝負する元来のスポーツとは距離を置いてしまっている気がしてなりません。 ③     YouTube やその他ネット情報 これらは自分の実力を向上させるためのツールとして有効にはなりえると思いますが、試行錯誤の繰り返しが失われてしまっています。練習は不可能を可能にするというプロセスは、②とも重なりますが、ある正解に寄せていく行為ではなく、トライ & エラーの繰り返しによりパフォーマンスを洗練させていくことであり、本来はそのプロセスがスポーツにおける自らの成長と言えるのではないかと思うのです。 イチロー選手が引退会見で発言したこととも重なりますが、頭を使わなくなった勝負は面白みに欠けてきます。私はあくまでもスポーツは遊びの延長線上にあると思っていて、やはり頭や感覚の勝負を楽しみたいなと思っています。当然時間がかかることにはなるのですが、スポーツはロボットでもコンピュータに支配された人間でもなく生身の人間がやるものですから当然です。何もかも時短、効率

ファーストペンギンかそれ以外か

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ファーストペンギンとは集団行動を好むペンギンの群れの中で、最初に海に飛び込むペンギンのこと。天敵などどんな危険なことが待っているか分からないところへ誰よりも最初に飛び込む・・・どんなに勇気のいることかと思います。(ただし、実際にはペンギンはそもそも臆病な生き物で、ファーストペンギンも自らの意志でリーダーシップをとって最初に飛び込んでいるわけではないようで、他の仲間に押されるなどして落ちるように飛び込むことも言われています。) 最近ではこのファーストペンギンをビジネス用語として置き換え、勇気をもって未知の世界へ飛び込み、多くの獲物を獲得する行動を指して使われています。文字通りのブルーオーシャン戦略といえるものかもしれません。 さて、集団においては「ファーストペンギンかそれ以外か」に分けられます。 分かりやすい例が「先生トイレ行ってきます」と一人目が言うと、「私も」「僕も」と言って二人目、三人目が続いていく連れション現象があります。みんな恥ずかしがって挨拶できない中で最初の子が挨拶すると続いて多くの子どもたちも挨拶するようになる例もそうです。 私の意見としてはやはりファーストペンギンとなりえる人になってほしいなと思います。当然誰かについていくという戦略をとって一生を過ごしていく人もいるでしょう。これも個人の選択ですから尊重しますが、私自身はどんなに小さな意思決定だったとしても自分で決めて行動できる人になりたいと常々思っています。セカンドペンギン、サードペンギンは結局のところ、他人の人生を生きることになるからです。 ここで言いたいのはリスクを承知で誰よりも先に行動して、誰よりもいい思いをしてやろうというブルーオーシャン戦略とかそういうことではなく、自分の行動(人生)は自分で決めるということです。以前の記事『 大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない 』や『 「これでいい」という生き方 』にも書きましたが、やはり繰り返し思うのは「我思う、故に我あり」で、自分がどうしたいのかをまずは自分がきちんと認識し、意思決定や判断の基準を他人に委ねるのではなく、自分がどう思うかで行動ができる人に私自身はなりたいと思うし、周りの人もなってほしいと思っています。 たとえ失敗したとしても、うまくいかなかったとしても、恥ずかしい思いをしたとしても、私は最初に行動をしたことを讃えたいと思います。

子どもの「やりたい」は子どものもの

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スポーツはいつから“習い事”になってしまったのだろうか。 昨今の子どものスポーツを取り巻く環境を見聞きしていると、そんな感想を第一に持ちます。あるスポーツを始めた子どもに対して、定型の技術や戦術を教え込んでいく。本当はそこに正解はないはずなのに。決められたことを教え込んでいくということに多くの意味は感じにくいというのが私の所感です。 今ここで云わんとしていることはスポーツの語源はdeportareという気晴らしを意味する言葉で、、、などといったことではなく、その一挙手一投足に対する指導が誰のためであり、何のためなのかが今一つ分からなくなっているという現状を嘆いております。おそらく指導している指導者自身も分かっていないのではないでしょうか。 考えられる理由としては「上達することで楽しさを感じてもらいたい」「勝つ喜びを知ってもらいたい」といったところでしょうか。そういった目的があることも理解はしており、それはそれで良いと思うのですが、幼少期から学童期におけるスポーツは競技スポーツとは異なり、また体育とも異なります。「やりたいからやる」とか「自己表現」がベースにあるのではないかと思うのです。その中で人間が本来持つ向上したいという欲が生まれ、あーだこーだ試行錯誤が始まるのだと思います。その結果うまくいけば自分事として嬉しいという感情につながります。この向上欲への刺激と試行錯誤と達成感こそがスポーツをやる上で大きな意味合いになってくるのかなと思います。このあたりは前に「 スポーツもR&D 」や「 大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない 」で触れました。 しかし、トーナメントやポイント、ランキングなどが存在するとアフォーダンス的に一気に「習い事」に靡いてしまいます。しかも靡かれる度合いが高いのはいつだって子どもより大人です。「勝ちたい」が「勝たせたい」になったり、「上手くなりたい」が「上手くさせたい」になったりしていきます。 そうやって習い事として育った先には良くないことが2つあると思っています。 一つ目はそのスポーツがつまらなくなること。やらなければいけない動作やプレーが義務感を生み、表現したい自己はかき消され、やりたかったからやっていたスポーツがいつからかやらされるスポーツに変わってしまいます。 二つ目は習った技術や戦術が枠となり、その枠の中でしかプレーができな

「これでいい」という生き方

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 「うん。これでいい。」 息子が幼少期によく言っていた言葉。お絵描きやら工作やら、自分なりの作品ができた後に誰に伝えるでもなく呟いていました。 前回の記事は「我思う 故に我あり」というデカルトの言葉で終わりましたが、今回は身近な息子の言葉。。 最近では自己肯定感とか自己効力感とか自己有能感とか、色々な言葉が出てきていますがどれもしっくりきません。効力や有能を必ずしも感じなければいけないとは思わないし、肯定というのもなにか違う。自尊心という言葉もありますが、これもなんとなく違う。 自分の行動、そしてその結果に対して「これでいい」と思えることこそが大事なのかなと思います。 私もそうですが日本人は自分の意見を述べることに億劫なことが多いですね。他人と意見が違ったらどうしよう、否定されたらどうしよう、こう考えてしまうと自分の意見を言うことができなくなります。これも前回の記事に書いた「評価」がもたらす悪しき点かと思います。 私が思うのは「意見」は立場に関わらず平等であるということ。議論は意見に対して行われるべきであって、誰が言ったかは本来は議論の論点ではないことが多いです。これは子どもでも大人でも一緒です。お互いが意見や思ったことを述べた上で、議論や会話を広げていけばいいということですね。 今回のこの記事は前回の記事の延長として書いていますが、まずは自分の考えを発想したり、自分の感情を認識したりできることが大切かと思います。その上でそれを他者と共有する。私もそうでしたがこれは練習(経験)が必要です。それができずに苦しんだ時期もあり、今でもそんなときがありますが、私は冒頭の息子の言葉に救われました。 「うん。これでいい。」 そういう生き方をこれからもしていきたいなと思います。

大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない

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自分は何者なのか?自分は何がしたいのか?自分はどうありたいのか? 自己基盤というらしいのですが、私自身を含めこれがない人が多いと感じています。なぜだろうとここ最近思いを巡らせていて、一つの考えに思い至りました。 「人々は評価をされすぎている」 勉学もスポーツもとにかく評価が多い。学校に行けばテストや成績表で先生から評価され、スポーツをやれば勝った負けたで指導者から評価を受けます。ましてや課題や取り組むべき問題すら与えられるばかりで自発的なものは希少という現状です。評価をされるということはある正解があって、それに合致しているか、少なくとも近づいているかが問われることになります。こういったことに義務教育で9年、後期高等教育以降で更に3年~10年強にわたり晒されることになります。そして社会に出てからも多くの組織においてはそういう仕組みになっています。これだけ他者評価というものを軸に年数を過ごすと自己というものが減殺されていき、冒頭の問いに答えられなくなっていきます。 卵が先か鶏が先かは分かりませんが、自己と同じく失うものとして「内省」が挙げられます。他者の評価が内省よりも先にくると人は内省をしなくなります。内省をしない人は成長は難しいです。スポーツでも同じ問題があります。勝てば良し、負ければ悪という勝利至上主義自体は指導方針の問題なのでそこに正解も不正解もないとは思いますが、いちいちプレーごと、試合ごとに指導者が良い悪いを述べていたのでは子どもは内省するチャンスを失ってしまいます。 本来スポーツ、もっと言えば運動というものは「自分がこう動きたい」と思ったことに対して自発的にそれができたかどうかを振り返りながら洗練させていくものだと思いますが、振り返る機会をもらえずにプログラミングされていってしまう場面が多々あります。体験→内省→考察→試行というプロセスが分断されてしまっています。スポーツは良い教育コンテンツだと言うつもりはないですが、この行動サイクル-体験学習モデルがスポーツにおいてはとても良いテンポで行われます。ここまで早いサイクルで回るものはあまりないかと思いますが、スポーツでなくても内省や振り返りの機会とトライ&トライの機会をたくさん得られればきっと自己成長につながるものと考えます。 ある遊びのシーンでとある男の子からこんな発言がありました 「ちくしょう!明日は絶対